2011/01/22

消えた1,5トンの金塊。。。

1789年10月5日。バスチーユ牢獄が堕ちて2ヶ月あまり、7000人以上の主婦たちが「日々食べるパンがない」とパリからヴェルサイユ宮殿までデモ行進をしました。あとについた市民軍は2万人以上でした。
それを聞いたマリー・アントワネット王妃は「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」といったとか。。。まあこれは伝説で、彼女が言ったという真偽の程は明かではないそうです。ただこのような話が出る程、王家が国民の現実から遠く離れて暮らしていたのは間違いないことです。主婦達は王ルイ16世の一家をパリに連れていく事に成功し、彼らは以後チュルリー宮殿でパリ市民の真ん中での生活を余儀なくされ、『フランス革命』の決定的な事件となります。





去年の暮れ、チュニジアの首都チュニスから250km程離れた小さな街ジディブジドに始まった政権に対する抗議デモが次第に国中に広がり、3週間たらずで、23年間続いたベン・アリ大統領の独裁政権を覆してしまった。国内の全てのマス・メディアが20年以上も完全に国の監視下にあった中で、この市民運動が波紋のように広まったのは、若者達の間での『FACEBOOK』や『TWITTER』、そして『ブログ』等を通しての連絡網によるものでした。この革命の発端は12月17日。大学を卒業していながらも仕事がなかった男性が絶望のあまり焼身自殺を図ったところにあります。彼の名前はモハメッド・ブウアジジ。彼は街頭で野菜や果物を売ってたけれど、警察が違法だということで、彼から商品を没収してしまいました。返して貰えるよう警察に懇願したが拒否され、彼は市の広場で自らガソリンをかぶり火をつけました。彼はまだ26歳で父が死んだあと彼が家族7人の生計をみていました。そして数日後に彼を真似て自殺する者もでました。。。

チュニジアの失業率は数字上は14パーセント。だけど現実は3人に1人は失業しており、モハメッドのように大学卒業資格がありながら街頭で野菜売りをしている若者が沢山いるそうだ。彼らはモハメッドに共鳴して抗議デモをしはじめたが警察は無装備のデモ隊に『実弾』を発射し何人もの市民が死んだ。その数字は70人に上るらしい。
1月13日にテレビにてベン・アリ大統領が2014年の大統領選には出馬しないこと表明し、「言論の自由」も約束するも、翌日14日には彼が逃亡した噂がながれだし、夕方にはサウジアラビア王国に亡命したことがわかった。警察が大統領の指示どおり集団にたいして『実弾発砲』したのに対して、それを拒否した軍隊の役割はもっとも重要でした。
真っ先にチュニジア国民の勇気を讃えたのはオバマ大統領と国連。そんな中で対応が悲惨だったのはフランス政府でした。何故なら12日にアリオマリ外務大臣は「暴動を押さえるためにチュニジア政府を援助する」と国会にて発言しています。若者達のデモに『実弾』を打つチュニジア政府を指示するかのように。。。インタビューや口頭での発言ではなく大臣は準備された紙面を読みながらの表明。つまりサルコジ大統領の指示のもとということで、僕もラジオで聴いて我が耳を疑いました。
(仏アリオマリ外務大臣。国会にて。2011年1月12日)

いつの世も王や独裁者が国民の現実が見えないのはよくある話だが、フランス政府がチュンジアで若者の命が数日間で70人も亡くなっている現実に目を塞ぎ、チュニジア政府に手を貸すというのだから、いかにフランス政府が現実を見れてないかが暴露された瞬間でした。もっともその裏にはフランスの政治家たちのこれまでの莫大な利権があるのが明らかですが。。。
ベン・アリ元大統領が最初に選んだ亡命先はフランスでした。そりゃあ外務大臣があんな事言ってくれれば、彼が当然フランスに逃げたくなるのもわかります。前日まで指示していたサルコジ大統領は受け入れを断った。フランス国民が黙っていないのを恐れたのでしょう。まぁ『情勢が変わった』ということなんでしょうが、つまり用なしになった者は興味がないという事でしょう。何とも「えげつない」話です。
(抱き合うサルコジ大統領とベン・アリ元大統領。 2008年4月)
巷ではこの革命を『ジャスミン革命』と言われてますが、この呼び名はやはりネットに始まり、あっという間に世界中にこのネーミングが広まりました。これは74年のポルトガルでの無血革命の『カーネーション革命』を思い浮かばせます。また若者達は『FACEBOOK革命』とも呼んでいるとか。。。
チュニジア人の哲学者ユセフ・セデイック氏はこの革命はパリの『バスティーユ襲撃』(1789年)にたとえられると言っています。何故なら暴動、銃撃、流血で70人以上の命が亡くなっていおり、「無血革命」とは程遠いものだということ。確かにジディブジドの街で最初に抗議デモを起こしたのは、貧困でネットもFACEBOOKにも縁がない絶望のどん底にあった人たちでした。
そして逃亡直前にベン・アリ大統領夫人レイラはチュニジア中央銀行に金塊1500本(約50億円)を持ってくるように指示したとのこと。。。

ルイ16世は主婦達にヴェルサイユ宮殿からパリに連れられて来た事件の1年半後の1791年6月に国外逃亡します。行き先はマリー・アントワネットの実家オーストリア。この頃発言権を持ち出してきていたたマリー・アントワネットは逃亡する際に準備された2頭の馬車では満足せず、6頭の大きな馬車を新しく作らせ、内装も彼女の好みで特注。そして沢山の銀の器を積み、王のための酒樽も持っていったとか、そしてドレスも新調させたために、逃亡の出発が予定よりも一ヶ月以上も遅れ、結局ヴァレンヌという小さな町で捕まってしまうという漫画みたいな本当の話。おめかしして逃亡したかった彼女は自分たちが置かれている現実が全く見えていない証拠ですね。

レイラ夫人の1,5トンの金塊準備の要求に中央銀行のディレクターは断った後、直接大統領に電話して聞いてみると、
— そんな事、まったく聞いてない。
しかしその後しばらく夫人と話したあと大統領は
— 彼女の言う通りにしなさい。
とディレクターに命令を下しそうだ。。。マダムの発言は絶対だったようで、結局銀行には1,5トンの穴があるそうです。マリー・アントワネットが持ち出したの銀の器なんて問題にならないですね。
チュニジア国の憲法では2ヶ月以内に大統領選挙が行われなければならず、デモクラシーに基づいた公平な選挙が行われるには時間とお金がかかります。予算も確かでない二ヶ月間で庶民は何ができるだろうか、ヨーロッパ議会も援助金を出すとしても、ベン・アリ元大統領に服従していた大臣や官僚たちが殆どのチュニジア政府に出すべきものなのかと議論されていた。。。。
20年以上の独裁政権で野党もメディアもないチュニジアはほぼゼロから出発するようなもの、市民達はこれからが正念場。。。

2 件のコメント:

  1. おケイ@研究室2011年1月23日 14:02

    本当に平和ぼけをしているのは庶民ではなく
    上流階級の人達なのかもしれないですね。
    ここまで詳しくかかれた記事はなかなかないので
    とても勉強になりました^^

    遅くなりましたが今年もよろしくおねがいします♪

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  2. >>おケイさんへ。
    長々書いてしまいました。こういうのって一口じゃ語りきれなくて。。。
    でも日本では遠い出来事のような感じなのかもしれませんね。
    ただ世間で盛んに『ネット革命』とか『ツイッター革命』という呼ばれてるのにちょっとだけ抵抗があったんでついつい書いてしまいました。
    発端には何十人もの人間の血が流れているのだし。。。

    こちらこそ、今年もよろしくです。

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